まるで鋭利な刃物のような一冊だ…
このブログは、元々は読んだ本の感想をただ書いているだけのブログだった。
でも、誰も見てはくれなかった。
私は自分の文章力のなさを自覚している。
大したものが書けない自分から常に逃げ続けているのかも知れない。
自分にはかつて、文学賞に出展しては落選を続けたという過去がある。
もう8年間一つも応募していないし、1つも書いていない。
凡庸な自分と向き合うのは辛いものがある。
そんな思いが結実して出来たのが「悲しみのイレーヌ」だったのではないだろうか?
作者のピエール・ルメートルが「悲しみのイレーヌ」でデビューしたのは55才の時のことらしい。
成人向け職業講座の講師などもしていたという所には、勝手にシンパシーを感じてしまう。
私もハローワークでの講習を行ったことがある。
作者は55才まで書き続けたのだろうか?
浅田次郎が13歳から40才でデビューするまでひたすら書き続けたという話を聞いて感心したことがある。
世の中で最も難しいのは、自分を信じ続けることと何かを継続することであると思う。
現在少年ジャンプで連載されている火の丸相撲なんかでもその辺りに焦点があてられているが、心を折らずにいることは大変困難なことだ。
世の中には天才が存在している。
「チームバチスタの栄光」を描いた海堂尊なんかはその最たる例だろう。
彼は初めて書いた小説で新人賞をとり、それがベストセラーになり、テレビドラマ化され、映画化された。
私は初めて書いた作品が比較的大きな賞の一次予選を突破したのだが、恐ろしいことに最初に書いたもの以上の「何か」を書くことが今でも出来ていない。
初めて書いた時は楽しかったのだが、今は書こうとすると動悸さえしてしまう。
自らの才能の無さに向き合うのが何よりも恐ろしい。
浅田次郎は13才から書き始めて30才で初めて文学賞の一次予選を通過し、その嬉しさのあまりその時の主人公の名前「浅田次郎」をペンネームにしたらしい。
17年間も誰からも認められずにひたすら書き続けるというのは、完全なる狂気である。
「悲しみのイレーヌ」のテーマはこの辺りにある。
*ここからはネタバレを含みますのでご注意ください。
本作の犯人であるフィリップ・ビュイッソンの動機は、過去に忘れ去られてしまった自分の作品を国際的なベストセラーにすることにある。
本作のあらすじを、犯人の側から見るとこんな感じであろうか。
フィリップ・ビュイッソンの本は絶版になり、誰の記憶からも忘れ去られてしまっていた。
誰からも見られない鬱屈を克服するために、フィリップ・ビュイッソンは再び自分の描いた小説「影の殺人者」に脚光を浴びせ、かつ新たな創作を試みることにした。
それは、過去の偉大なる作家達の作品を模倣した殺人の中に、自らの「影の殺人者」を模倣した殺人を行うことを内容とした「悲しみのイレーヌ」という一つの「事件」を創作することであった。
犯人の目論見は成功した。
犯人の側に自らを投影している
これは個人的な感想なのだが、作者であるピエール・ルメートルは、自らの鬱屈をフィリップ・ビュイッソンに込めているのではないかと思う。
今ならわかることが一つある。
私は書けば書くほど書くものが詰まらなくなって行った。
自分では気づいていなかった。
「勉強したらしただけ成績は上がる」
これと同様に、書けば書くだけ能力は上がると思っていた。
でも、全然上がらなかった。
現状維持さえできなかった。
いつの頃からか、一次予選にも全く通らなくなってしまっていた。
当時はまるで原因が分からなかったが、今ではその原因がよくわかる。
それは、登場人物に己の鬱屈を込め過ぎたのだ。
創作は己の鬱屈を晴らす為のものになっていた。
誰がそれを読みたいと思う?
やりたいことと出来ることは違う。
人が読みたい何かと人が伝えたい何かは違う。
外に出せない鬱屈がある。
人はそれを外に出したいという欲情に駆られる。
芸能人達が洗脳されることがある。
人気物であればあるほど、他人が何を見たがっているか知っている。
他人の欲求を満たす術を知っている。
そして自らの内側に欲求を閉じ込める。
誰もそれを知らない。
誰かに理解してほしい。
洗脳者達はそこを突く。
書き手に要求されるのは、自己の満足などではなく読者の満足なのだ。
私は勝手に自分が満足したいものを作ろうとしていた。
結果、自分も誰も満足できない何かが積み上がって行った。
ルメートルはその鬱屈をビュイッソンに込めたのだと思う。
己の醜い側面を。
世に出、他人から承認されたいという欲求を。
自分自身の歪んでいる部分を膿のように吐き出したかったのではないだろうか?
ハッピーエンドはやってこない
「悲しみのイレーヌ」はルメートルの処女作である。
が、私を始め多くの人が「その女アレックス」を先に読んでいると思う。
ので、先にネタバレがされている状態だった。
出来れば先にこちらを読みたかった。
「その女アレックス」は私にとっては特別な1冊だ。
このブログの中でも、「本」のカテゴリは最も人気がない。
本も売れたことがなかった。
初めて売れたのが「その女アレックス」である。
「その女アレックス」はとても悲しい物語である。
今作で妻子を失ったカミーユと、全てを失っているアレックスが対称的に描かれた傑作。
カミーユの悲しみがあらわれている1文がある。
「あまりにも殺風景な光景だった。心のよりどころとなるものが何ものこされていない。悲しみを乗り越える為の支えが何もない。悲しみそのものが変わってしまっている。その時不意に、頭上から石でも落ちてきたかのように、あの凄惨な場面がよみがえってった。
イレーヌと胎児の死体……。
カミーユは、膝を折って泣き崩れた。」
色々と賛否両論あるようだが、私はこの上もない傑作だと思っている。
「悲しみのイレーヌ」もそうだが、残虐なシーンがあるのが否の方の意見だろう。
私も残虐シーンが嫌いなのでその気持ちはよくわかる。
だが、その痛々しさ、被害者の痛みが読んでいる人間にまで伝わるような圧倒的な描写こそがこの作者の最大の持ち味なのだ。
だから惹きこまれる。
虚構だからこそリアル
横溝正史の「夜歩く」などにも見られる手法だが、読者はある時犯人が作った創作を読まされていたことに気づく。
「夜歩く」は不発だったと言えるが、この作品は大成功したと言えるだろう。
読んでいくうちに何が真実で何が虚構なのかわからなくなって混乱する。
そして読んだ後に気づくのだ。
全部虚構なのだと。
ルメートルは実にリアルな描写をする。
作中で誰かが痛みを感じれば読者も痛みを感じる。
まるで鋭利な刃物のように、とても痛く、それは避けがたい。
人はなぜミステリーに惹かれるのかということはかねてより論争になっていることだが、人は死を通して生を感じる部分があるからだという意見がある。
ホームズには死臭はしない。
それがホームズの良いところだ。
ルメートルの描く作品には圧倒的な死臭がする。
それゆえに、生の影もまた濃いのだと思う。
痛みを感じている時、人は最も生を感じるのだと言われるが、「悲しみのイレーヌ」を読んで特にそう思った。
虚構ではあるのに、イレーヌとその子供の冥福を祈らずにはいられないのだ。